まだ正午を過ぎて間もない時刻であるのにも関わらず、空はどんよりとした厚い雲に覆われて薄暗かった。
剣士はその空を一睨みすると、近くの木に寄りかかって読書をしているBSのほうに歩を進めた。
「ん? 今日はもう帰るの?」
 本から顔を上げたBSの言葉に頷きながら、剣士は再度空を睨むと蝶の羽を手に取る。
「もうすぐ…雨になるからな」
 一言、そういうとBSを待たずに帰還した。
雨の日は、外に出ないほうがいい。






 別に雨が嫌いな訳じゃない。
雨がないと生きられないことも知っている。
 それでも、雨の日は外には出たくなかった。
「はいよー。ホットミルクに一口ケーキお待ち〜」
 帰り際に寄った店でテイクアウトしたケーキを皿に移し替えてテーブルに置く。
剣士は窓から一番遠い椅子に座って、それを受け取った。
 小さい窓から見える外は、長雨を予感させるほど暗くなった通りを見せている。
BSはカーテンを引くと殊更明るい口調で、さぁ食べようか、と言った。
 いつものようにBSがしゃべり、剣士が相槌を打つ会話が少しの時間流れたが、控えめなノックの音でそれが中断される。
剣士はギクリと玄関の戸を見つめてから、声を押し殺し気配を絶つ。
 雨の日は、碌なことが起こらないのは前々から知っているから。
「ちっ、またあいつ等かな…」
 BSが小さく舌打ちすると、玄関に向かった。
ここは剣士の家であったが、家主が出たくない客の相手はBSがすると何時の間にか決まっていたのである。
 BSが椅子を立った瞬間に、剣士は外がすでに雨になっていることに気付いた。
ザーザーと聞こえる音が嫌で耳を塞ぐ。一度聞いてしまえば、今度は耳からではなく記憶から聞こえるその音に対抗する術はないのだけれど。
「…アンタ達もしつっこいねぇ」
 玄関を開けた先には、ここ数週間ですっかり覚えてしまった顔があった。
いや、それは正確な表現ではない。
 『顔』自体はもう何年も知っているのだが、その人物とは数週間前に初めて会ったのである。
「兄と話をするまでは、何度だって来るよ」
 家の中にいる剣士と同じ顔を持つ少年が、BSを睨みながら言う。
その言葉にヤレヤレと肩を竦めて見せると少年の後ろにいるウィザードも口を開いた。
「こいつは諦めるって言葉を知らない人間でな。悪いが家主に会わせてやってはくれんか?」
「おいおい、勘違いしないでくれよ。 その言い方だと俺が意地悪して会わせてないみたいじゃんか」
 剣士が対応したくないからこそ、自分がいるのだ。
会うことすらの拒絶。
 それを分かっていての言葉だとは思うが。
「じゃぁ、そこをどけよ」
 少年が一歩踏み出す。
が、進路を妨害するように足で玄関を塞ぐ。
「あいつは会いたくないって言ってるんだ。 会わせるわけにはいかないわけよ」
 鋭く睨んでくる少年におどけて言ってみせるが、BSが本気であることは分かったのだろう。
体格差からいって自分では無理矢理通ることも叶わぬと判断したのか、BSに背を向けて歩きだした。
 雨の中数歩進んでから、足を止めて振り向きもせずに言う。
「…兄に伝えて。 また来ますって」
 この水分を含み重そうに見える漆黒の法衣を着た少年と、やたら長身で彫りの深い顔のウィザードは、雨の日にしか来ない。





 出会ってから間も無くで、剣士が雨が嫌いであることはすぐに分かった。
どんなに嫌がられても傍にいたBSの功績なのか、別に隠していたわけではないのかは分からないが、兎も角、剣士は雨の日は家に篭りっきりになるのである。
 理由はすぐに知れた。
知りたがりな性格とストレートな物言いなBSが尋ねたら、当の本人が淡々と話てくれたのだ。
別に、たいした理由じゃないけど。
 そう言って切り出した話は、彼の幼少期からのものだった。
「理由は…そう、別にたいしたことじゃないんだ。
 小さい頃、父さんが出て行ってしまってね。 それが雨の日だったと思うんだよ。
母さんは、父さんとの結婚指輪を握り締めて庭に立ち尽くしていたんだ。
 僕が『風邪引くよ? おうちに帰ろうよ』って何度言っても、ずっと父さんが歩いていった先を見つめて……。
 父さんは何年も前から……ううん。母さんと結婚する前から好きな人がいたんだって。
だったら何で母さんと結婚したんだろうねぇ? 僕には父さんの気持ちも母さんの気持ちも分からないんだ。
 結局は母さんと僕を置いて好きな人のところに行ってしまった父さん。
なのにも関わらず、毎日結婚指輪を握り締めて『…父さんは、きっと呼べばすぐに来てくれるのよ?』なんて言いながら結局死ぬまで…死んでも来なかった父さんを信じていた母さん。
 当時住んでいた場所は雨が比較的多いところでね、母さんが死んだ時も雨だったよ。
僕が剣士への試験を受けている最中にね。 その日の朝はとても天気が良くて、ずっと臥せっていた母さんの体調も良さそうだから安心してたのに…。
 剣士になれたことが凄く嬉しくて、雨の中を走って帰ったのを良く覚えている。
始め、母さんは寝てるんだと思ってた。
 揺り起こそうとして、違和感に気付いたんだ。
雨に塗れた僕よりも、もっとずっと冷たい母さん手。 いつも握り締めていただけの結婚指輪がね、左手の薬指にはまっていたんだよ。
 …そこからは、ちょっとあんまり覚えてないんだけど、開けっ放しだったドアの錆びた嫌な音だとか、そのドアに叩きつける水音が耳から離れないんだ。
 だから、雨が嫌いなわけじゃないんだよ、僕は。
雨から連想してしまう、両親のことを思い出したくないだけなんだ…」







 BSが部屋に戻ってくると、剣士の姿はそこにはなかった。
大体見当のついたBSは大きく溜息を吐くと、放って置かれたままのケーキを冷蔵庫にしまう。
 数週間前に、あの二人が現れてからめっきり食の細くなってしまった剣士が唯一食べたがるケーキなのだ。こうしておけば、明日の朝にでも食べるかもしれない。
 あのプリーストとウィザードが初めてこの家を訪ねてきた時も、このケーキを突付いていた。
早々に食べ終えてしまったBSが客の対応をすると言って玄関に出たとき、それは驚いたものだ。
 ケーキをもぐもぐと頬張っていた顔と同じ顔が、玄関先でも現れたのだ。そのプリーストは自分を見るなり、少し不機嫌そうな顔をして「…兄を出して欲しい」と一言告げた。
 そっくりな顔で「兄を出せ」と言われれば、部屋の中で幸せそうにケーキに夢中になっている剣士だと馬鹿でもわかる。
 だが、自分は剣士のあの話を聞いておきながら失念していたのだ。
彼の父親は、彼の母親と結婚する前から好きな人がいたことを。
 つまり、だ。 つまり、同世代の腹違いの兄弟がいる可能性を、すっかり失念していたのである。
「……やーっぱり、ここか」
 剣士は自室のベットの脇で丸まっていた。
ベットの上でなく、脇なのにはそれなりの理由がある。
脇だとベットで窓が見えないからだ。 正確には、窓から見える雨が見えないからである。
 丸まりながら耳を塞ぎ、目を瞑っている剣士の横に座るとBSは懐からタバコを取り出した。
 チラリと隣を見る。 初めて二人を引き合わせてしまった時よりは、幾分かマシな顔色ではあるが。 だが、やはり真っ青である。
 吸おうかと思っていたタバコをまた戻すと、BSは窓のほうを見た。
早く、この雨が止めばいいと思う。
 剣士の心に巣食っている忌わしい記憶がなくなるように祈るよりは、雨が止めばいいと思うほうが、幾分か堅実的な気がしたから。
 彼の記憶の雨を止ますのは、自分じゃないと分かっていたから。