大切な人と好きな人がいます。




森に捨てられていた僕を拾ってくれたのは、近くに住むお屋敷の主とその孫だった。
 とても優しい人達で、見ず知らずの僕を引き取り、育ててくれた。
自らのことを祖父と呼んでくれて構わない、なんて言って僕を家族同然に扱ってくれたことには感謝してもし足りないくらい有り難いと思っている。
 でも、僕は家を出た。
もちろん追い出されたわけじゃない。
 祖父の友人の冒険者に狩人としての素質を見出されたからだ。
僕は素直に喜んだ。
 だって、ただのごく潰しから、冒険者に昇格だ。
冒険者になれば危険だって増えるけど、この優しい人達に恩返しができるかもしれない。
 そう思ったから、渋る祖父を説得して、僕は冒険者になったんだ。


 冒険者としての生活は、思った以上に苦しかった。
お屋敷で安穏と暮らしていたせいだろうか、自分が如何に世情に疎いかということに少なからずショックを受けた。
 祖父の友人は小まめに僕と連絡を取った。
僕も祖父たちのことが気がかりだったので、情報交換としてそれはとても有り難いことだった。
 今考えると、ただの笑い話なんだけど。
当時の僕には大ショックな事件が起こったんだ。
 ずっと欲しかった装備が売っていて、しかも手持ちのzenyで買える金額。
僕は誰かに買われてしまわないかと焦ってその商品に手を伸ばしたんだ。…よく確かめもしないでね。
「あの、すみません…これ、くださ…」
 言いかけたとき、僕の腕を掴んだ人がいた。
それが、『彼』だった。
「おいおい、お坊ちゃん。よく確かめてから買えよ」
 腕を掴んだBSを驚いたように見上げると、彼はそう言って空いているほうの手で僕の持っている商品を指差した。
 言われたとおり、良く見てみると…違う。
結果から言わせてもらえば、僕は騙されそうになったわけだ。
僕が気付くと同時に、露店の店主は飛ぶように逃げて行った。お見事、と隣で軽く口笛を吹く音がする。
「あの、ありがとうございます」
 僕の礼に彼は笑いながら「気を付けろよ」を大きな手で頭を軽く撫でながら言ったんだ。
森の奥にあるお屋敷から出てきた田舎者だから、冒険者になってからもずっと溶け込めていなかった。食べ物にも、習慣にも、行き交う人々にも。
 極めつけに、詐欺露店だ。
僕の心中は『家に帰りたい』という情けない気持ちでいっぱいだった。
 でも。
彼の、そう、彼の大きな手で頭を撫でられた瞬間に、張り詰めていたものが緩んだ気がした。
 彼の手から懐かしい森の香りがしたせいかもしれない。
いや、もしかしたら、予感めいたものがあったのだろう。

僕は、この人を好きになる。



 数年という月日が瞬く間に流れた。
僕は駆け出しのアーチャーからハンターになり、日々をそれなりに過ごしている。
 彼とは今では親友と呼べるほど親しくなり、よく飲み誘ったり誘われたり、それが嬉しくて楽しくてもう一歩先には進めないでいた。
 でも、自分の気持ちを伝えたいという欲求は日増しに高まっていた。
僕は…大切な人のことをすっかり忘れていたんだ。
自分の恋に夢中になって、まるで彼が全てかのように日々を過ごし、大切なことをずっと見落として…いや、無視し続けてきたんだ。
「……え?」
 やっと僕を探し当てた、と言って大げさに膝を突いた祖父の友人を僕は暖かく迎えた。
そういえば、何年か前からこの友人に知らせずに住む場所を変えていたっけな、とぼんやり思い出す。
 実は、こっそりと彼の家に近いところに引越していたのだ。
僕は自分のささやかな失敗を取り繕うかのように、祖父の友人を丁重に扱った。
しかし、彼は勧めた椅子もお茶にも手も触れないで、一言、呻くように呟いただけだったんだ。
「……あなたの、お祖父さんが…お亡くなりになりました……」



 世界が一気に歪んだ気がした。



 実は祖父は1年も前に亡くなっており、でも最後まで連絡のつかない僕のことを心配していたそうだ。
僕は、ひどい吐き気と頭痛を抱えて、懐かしい森のお屋敷に向かった。
 外観は何一つ変わっていなかった。
壁を伝う蔦も、良く手入れされた庭も、僕を見つけると嬉しそうに、でもどこか泣きそうな笑顔を向けてくれる祖父の孫も。
 いや、彼女だけは変わっていた。
僕よりも背が高かった彼女は、とても小さくてすぐに消えてしまいそうなほど弱々しい存在になっていた。
 祖父の死が彼女をそうさせたのかもしれない。
いや、もともと線が細かったのかもしれない。
昔あれだけ一緒にいた彼女のことはあまり覚えていないのに。差し出された彼女の手を見て、『親友』のゴツゴツした手を細部まで思い出した自分が憎くてたまらなかった。
 こんな時にまで、僕は自分の恋に夢中なのだ。
彼女に手を引かれ、連れて行かれたのは屋敷の裏にある、小さな薔薇園だった。
そこは、僕が捨てられていた場所だった。と、同時に祖父の大のお気に入りの場所で、よく椅子を持ち出してはここで本を読んでいたのを覚えている。
 その椅子が置いていった場所に、小さな石碑が立っていた。
彼女が目を伏せてそれを見る。
それくらい、言わなくても分かる。あぁ、これがあの優しかった祖父なのだろう。
 胸が詰まって、何も言えなかった。
ただいま、とか。ごめん、とか。
色々言わなければならない言葉が頭の中を駆け巡ったけど、僕はその場で泣き崩れるしかできなかった。
「おじいさまから、貴方への手紙です」
 一通り落ち着きを取り戻した僕に、彼女は一通の手紙を差し出した。
祖父の印が押してあるそれを、僕は大切に受け取り彼女を見た。
 封は切られていないし、彼女が軽く首を振ったので、中身は誰も知らないのだろう。
僕は、その手紙を開けることを躊躇した。
 自分から家を出た恩知らずの僕のことを罵る文面かもしれない。そんなこと、あの優しい祖父が書くわけないのに、一瞬そんなことが頭を過ぎったからだ。
 震える指先で手紙を開く。
手紙には、僕が元気にやっているかとか、怪我はしていなかとか、他の冒険者との交流はどうかとか、しきりに僕を心配することが書き連なれていた。
 再度、涙が溢れた。

あぁ、僕はこの大切な人を蔑ろにして、自分の好きな人のことばかり追って過ごしてきたのだ。

 そう思うと、胃の奥が凍るような気持ちだった。
最後まで、いや、最期が終わっても尚僕を心配し、僕を大切にしてくれているのに。
 僕は、この大切な人の最期を無視したのだ。
どうしようもない衝動にかられた。
 泣き叫び、手当たり次第誰かにあたりたかった。いや、もしかしたら、誰かに口汚く罵られたかったのかもしれない。
 必死にそれを押さえながら、手紙の続きに視線を走らせる。
もしよければ。
 そういう行で始まった文章に、僕は少し驚いた。
手紙にはこう書かれていたのだ。

『もしよければ、孫とこの家にずっと一緒に暮らしてやって欲しい』

 もちろん、強制的でも脅迫的でもない文章だったけど。
僕の心は、すぐに決まった。





大切な人と好きな人がいます。


 大切な人は失ってしまいました。
でも、その人の願いが僕の中にあります。
僕はこれから、好きな人を失いに行きます。
失うも何も、最初から手に入れていたわけではにんだけど。でも、自分から可能性をも手放すのも、失うでいいよね?
 大きく息を吐いて。

吸って。前を見る。

 そこには、好きな人が露店を出して行き交う人々を幸せそうに見ている横顔。

その横顔に勢い良く駆け込み、僕は「ずっと好きだった子にプロポーズしてオーケイを貰った」と嬉しそうに言うのだ。

 精一杯幸せそうに。
 これ以上ないくらい幸福そうに。



彼女も、彼も、自分の心すらも騙せそうな笑みを湛えて僕は、決して訪れることのない幸せを表現しながら歩き出した。