「この人が、『パパ』よ」

 差し出された一枚の写真。
紅茶で染めたような色は初めからなのか、それとも時が染めたのか。
子供には判断が出来なかったが、興味は写真の色合いでも風貌でもなく、映し出された唯一人の者に注がれていた。
「この人が、『ぱぱ』ですか?」
 受け取った写真を大切そうに胸に抱くと、優しく頭を撫でられた。


 それは、まだ、子供が『まま』と呼んでいた人が動いていた時の記憶。




良い夢を見た。
『まま』から頭を撫でられる夢。
それは厳密に言えば夢ではなく、過去にあった出来事であるが。
それでも眠っている時に見たものだから、夢と言っても良いのであろう。
 静まり返った小さな部屋、小さな寝台。
その主は音を立てないように寝台から降りると、カーテンを開ける。
 目に刺さるほどの日差しが子供に注がれるが、それを嫌がるでもなく、むしろ嬉しそうに目を細める。

 なんだか、良いことが起こりそうな、そんな気にさせる天気だったから。








 天気を信じると、碌なことは無い。
何か良いことが起こりそう…そう思った矢先に家賃の取立てがきた。
子供が一人で生きていくにはプロンテラの物価は高すぎる。
 いくら大聖堂から補助金を貰っているにしても、潤った生活というわけにはいかない。
それを少しでも何とかすべく子供は冒険者になったのだが、今日に限ってソレも上手くいかない。
 普段なら余裕で倒しているはずのモンスターに何度も逆にピンチにされてしまう。
実際カプラサービスのお世話にも何回かなった。
「……これが噂にきく『厄日』ってやつですか」
 何も成果が出ないまま、一旦部屋に戻ると寝台に突っ伏す。
子供が呟くには少々違和感の感じる台詞であるが、それを気にする人は近くにはいない。
突っ伏した格好のまま、頭を少しずらしてサイドテーブルの上にある写真立てを見る。
 一つ目の写真立てには、プリーストの格好をした若い女性。
 二つ目の写真立てには、赤茶色に染まった古い写真。
「まま……」
 一つ目の写真立てに視線を合わせ、子供は震えた声で一言呟いた。
もし近くに誰かがいたとしても、その台詞に違和感を感じることはないであろうそんな一言を。






 昼を過ぎても、プロンテラは良い天気であった。
どこまで見渡しても雲ひとつ無い空は気持ち良いものであったが、朝からついてないことばかりである子供には、それを見上げる余裕などない。
 もう一度モンスターを退治に行くか、それとも別のことをするか。
それを考えながらプロンテラの街中を歩く。
こんなついてない日に街中を歩くのは、本当は危険なのだ。
何もモンスターは外だけにいるわけじゃない。
「あ、危ないよー」
 聞き覚えのある声に伏せていた顔を少し持ち上げると、目の前にはオークウォーリア。
どちらさんのペットですか? なんて疑問が浮かんではこないほど血走った目をしているのだから、誰かが古木の枝でも折ったのだろう。
「はいはい、ぼーっとしなーい」
 驚きで固まっている子供のすぐ近くから、先ほどと同じ声がする。
声の主は長い赤い髪を一つに結わいたアルケミストである。
 のんびりとした口調、大人しそうな顔の造りとは違い、彼女は立派な戦闘特化のアルケミストなのだ。
「はいはーい。ハァハァしすぎな人は、村に、そして土に還りなさーい」
 間延びした言葉が言い終わらないうちに振り下ろされた火属性の海東剣。
瞬く間にオークウォーリアを倒すと、子供の頭に手を置く。
「あ、あの…ありがとうございます」
「ふぃ〜、気にしなーい。お隣の部屋に住むもののヨシミってやつ?」
 ぽんぽんと軽く頭を叩きながら言うアルケミストに、もう一度お礼を言うと、子供は踵を返して部屋に戻ることにした。
今日は、本当についてない。
 家賃の取立て、上手くいかない狩り、そして極めつけは枝テロだ。
テロだってオークウォーリアだったから良かったものの、もっと強いモンスターが目の前にいたらどうなっていたことか。
 もし、もっと強いモンスターだったら。
いや、オークウォーリアでも役不足ではない。隣の部屋に住むアルケミストの彼女がいなければ。
 強いモンスターだったら、彼女が助けてくれなければ、誰も居ない部屋に戻ることなく『まま』の元へ行けたのかもしれない。
「………」
 瞬間そう思ったが、子供は足を止めて大きく頭を振る。
自分の暗い考えを払拭するように暫くそうしていたが、目の前から歩いてくる人物が目に入り固まってしまう。
 子供が毎日見ている顔を持つその人物は、露店で何か探し物でもあるのかキョロキョロと辺りを見回しながら歩いてくる。
 まっすぐ。 間にどれだけの人が通ろうとも、その人はまっすぐに子供に向かって歩いてくる。
「…ぱぱ?」
 子供はその人を見つけて呟く。
目を見開いて、『まま』から貰った写真と同じ顔を凝視して。






「この人が、『パパ』よ」

 差し出された一枚の写真。
それを胸に抱くと、優しく頭を撫でられる。
「……私が、いなくなったら……『パパ』を探してね」
 段々と緩慢になっていく手の動きを感じながら、子供は写真を強く握り締めた。
「『ぱぱ』を探す?」
 ぐ、と喉の奥に何かが詰まったように声が出し難かったが、子供は無理矢理にでも話を返す。
でないと、このまま『まま』が消えてしまいそうだったから。
 いや、消えてしまうのは分かっていた。それを少しでも引き伸ばそうとしていたのかもしれない。
「そうよ。『パパ』を探すの。……決して、『ママ』のところに来ては駄目よ」
 優しく撫でていた手が止まる。
「………まま?」
 微笑みを浮かべたままの人は、二度と動くことは無かった。


 それは、子供が『まま』と呼んでいた人が、最期に動いた時の記憶。






 プロンテラは今日も澄み切った良い天気であった。
コバルトブルーの絵の具を一面に塗ったような青空に、柔らかそうな白い雲。
子供は窓からそれらを見上げて、笑顔でサイドテーブルの『まま』に話しかける。
「まま! 今日はぱぱが時計塔に連れて行ってくれるって!」
 あの日出会った『ぱぱ』が、『まま』の言う『パパ』でないことは分かっている。
本人からも説明されたし、事情を知っている隣のアルケミストからも言われているし。
それに、写真の古さと『ぱぱ』との年齢が合わないこともある。
 それでも、子供は『ぱぱ』と呼ぶ。
初めは一々否定していたのだが、結局は子供に折れたのか、慣れたのか、あだ名のようなものだと自分を納得させたのか、最近では何も言わなくなってきている。
「ぱぱのお友達もお隣のアルケミさんも一緒に行くんですよ!」
 そろそろ仕度しなきゃ、と子供は空けていた窓を閉める。
サイドテーブルの横を通る時、笑みを一層濃いものにして子供は出かける準備を始めた。


サイドテーブルには二つの写真立て。

 一つ目の写真立てには、プリーストの格好をした若い女性。



 そして、二つ目の写真立てには……。